故郷が被災したミュージシャンノリシゲとRIAが立ち上げた、音楽や表現活動を通じて被災地内外を問わず“人の持つ元々のエネルギー = 元気” になってもらおう! というプロジェクト。
故郷である岩手県大槌町・吉里吉里を中心に物的支援も含めた応援活動です。(2011.4月〜)
過去も未来もあっという間に押し流して行った津波
消え失せた町並みに吹き荒れる風
私の愛する故郷
愕然とするこの景色を見て何をすればいいのかさえ思いつかなかった。
今、徐々に立ち上がりつつある被災地の方々の思い...
手を繋ぎその背中を支えてあげれたらと思っています。
共にこの災害を乗り越えて行きましょう。
ノリシゲ
爆弾が落ちたような瓦礫の町が北にも南にも続いている。
震災後4日めに歩いた岩手県大槌町。私は一日中、青ざめていたと思う。
国の力は大きな手だけど、それだけでは正直「無理だ」と思いました。
東京の人の、被災に合わなかった地域の人の”元気”を今少しでも持っていってあげたい。
興味を持ってもらえたら、ぜひ参加して下さい。
復興が進み、被災地への支援が、早く要らなくなりますように。心から。
RIA
私の親戚の住む、岩手県大槌町吉里吉里は東日本大震災で被害にあいました。
地震当日から「壊滅!壊滅!」と叫ぶニュース、連絡の取れない親戚、
待っている事に耐えられず、この日、東京から岩手県へ向かいました。
被災地へ着く直前まで、私が見たものをTwitterで流し続けました。
夜に岩手県大槌町に着き、生存していた義母と再会しました。
義母は高台で津波が来なかった親戚の家に身を寄せています。実家は全壊しました。
親戚5名は未だ(4/3時点)見つかっていません。
大槌町吉里吉里では火災はありませんでしたが、壊れ果てた街、
残った建物の中や外に瓦礫積み上がり、そこら中に散らばる瓦礫。
大槌町市街地ではまだ静かに焼けつづけ、煙が上がり、何が焼けているのか分からない、
ものすごい匂いのする町を歩き回りました。
まだ自衛隊も誰も入っていないような所ばかり。沢山の遺体も瓦礫の下にありました。
戦場のようでした。私は、一日中青ざめていたと思います。
ライブハウスClub Changeで働く友人の呼びかけで集まった物資を吉里吉里小学校へ運びました。たまた
ま出会った放送局アルジャジーラのジャーナリストの車も協力してくれました。
後から聞いたら、小学校に最初に届いた物資だったそうです。
それまで、地元で倒壊したコンビニやガソリンスタンドの店主からの寄付だけだったとの事。
知人づてに、盛岡のスーパーから大量の食料を頂きました。
親戚経由で大槌町あかね会に運びました。
震災後10日以上、塩&具無しのオニギリとゆで卵ばかりと聞いていた所です。
この間、岩手県盛岡と大槌町を往復しながら滞在しました。
大槌町吉里吉里では親戚宅の生活の手伝い、瓦礫の町の中で流された家の物を探し、半壊の建物の取り壊し。
避難者名簿や避難所・状況に関して情報を集めたりしていました。
(行った避難所は”大槌町”:吉里吉里小学校/吉里吉里中学校/中央公民館/あかね会 ”山田町”:山田高校)
親戚宅では水がないので、リュックサックに20本程のペットボトルを持って山の沢まで水を汲み、ガス電気がないので、壊れた納屋からリヤカーを引っ張りだし、
瓦礫から建築木材を拾い、持って行ったナタや拾ったノコギリで切って、ご飯を炊いたり湯を沸かしたりしていました。一日があっという間でした。
岩手県・盛岡では、写メで撮ってきた大槌町避難者名簿をPicasa(インターネットの安否情報サイト)にアップしたり、物資搬送しました。
今(4/3時点)は自衛隊の風呂が設置されたので使われていないと思いますが、私たちが帰る直前、拾ったり譲ってもらった材料で吉里吉里小学校にドラム缶風呂を作りました。誰かの疲れが少しでも癒されたら。作った日、10〜15人くらいが歓声を上げて入ってくれた、嬉しかった。
RIA